遠く陸奥湾横浜近辺から釜臥山(斗南磐梯)を望む

会津と薩摩

会津と薩摩、約150年前の戊辰役で

因縁のある、二つの国にルーツを持ってしまっていた、なぜか偶然で(運命なのか?)自分が遭遇していく事柄に調べないと気が済まなくなった経緯、独断と偏見なる、人から見れば他人事、難解、解読不能レポート、まさに独り言。

 

 

会津藩とは

猪苗代湖 南岸より磐梯山を望む

 

まずは会津藩のことを簡単に紹介すると江戸時代、日本の国の中で一番の教育水準と強い軍を持った東北の山奥の国。

猪苗代湖と磐梯山と山々と水田に囲まれた美しい会津盆地が中心の国です。

 

古くは神話の時代から記録もあるようだし伊佐須美神社という古い社もある。

奥州仕置で秀吉が来ているし重要な場所になるわけです。その頃はまだ「黒川」と呼ばれていたそうです。蒲生氏郷が会津に入って「会津若松」となりました。徳川幕府によって会津藩が置かれたのも奥州の守りのためでもあるわけです。

 

飯盛山での白虎隊演舞

滝沢の石部桜    樹齢約400年

なぜか田んぼの真ん中に一本ポツンとある。

鶴ヶ城より飯盛山、磐梯山を望む

高瀬の大木 樹齢350年 これも田んぼの真ん中にある。

 

喜多方 熊野神社 長床

 

会津に続く下野街道 大内宿

正之公と共に信濃から伝わった高遠そばが有名。

 

会津の鎮守 諏方神社。

会津戦争の激戦地。鳥居に無数の弾痕がある。当時のお祭りは藩士の子供達の天国だったそうだ。

 

御薬園

 

その会津藩の始まりは大河ドラマになっても良い程にとてもドラマティックな話です。

 

徳川2代将軍「秀忠」が女中「お静」に手をつけ生まれた子が「幸松丸」(のちの「保科正之」会津藩初代藩主)。

その子の行く末を案じ「お静」が預けたのが」「見性院」(武田信玄娘、穴山梅君室、本能寺の変直後、伊賀越えする家康の身代わりに犠牲になったので江戸城内に屋敷があった)でありました。

それを知った嫉妬深い「江」(秀忠妻、信長妹お市の方の娘、淀の末妹)はその子の命を狙い刺客を放った。「見性院」はそれを見事に追い払った。

女の手でその子を育てるのに心配した見性院は旧武田家臣、信州高遠の保科正光を頼って母と「幸松丸」は高遠に旅立った。正光はその人柄に惚れ込み自分の跡取りとして元服させ「保科正之」が誕生したのでした。

 

 

 

浦和 大牧の見性院墓

会津藩によって立派なお墓が作られた。

 

 

将軍の弟

 

その後3代将軍となった「家光」はある時目黒に鷹狩りに出かけた。そこで身分を隠し、入った寺で休憩をとった。堂に入るとみすぼらしい寺に似つかない掛け軸があり、不思議に思った「家光」は住職に尋ねると

「この寺は保科家にお世話になりその殿様にいただいた掛け軸です。保科の殿様は質素にお暮らしで将軍の弟君であるのに将軍は知らんぷりでなんともお労しい」。

 

 

目黒の蛸薬師

お静地蔵がある。

  

「家光」が調べてみると確かに「保科正之」は実の弟であり、謙虚で人望があり優れた人物であることがわかった。

 

 

「家光」は喜び「正之」を自分の弟と認め寛永13年(1636年)山形20万石の大名に抜擢した。

高遠城 大手門跡

 

会津 鶴ヶ城

 

そして正之は寛永20年(1643)会津23万石の大名と引き立てた。(正之は松平の姓は周りへの配慮から固辞したそうだ)

 

 その将軍家への感謝から「御家訓」を会津の家臣に課した。

これが会津藩の掟であり、武士として純粋培養された藩士やその民の心構えにつながり、幕末まで苦しむ原因となってしまった。最後の9代藩主容保は他家からの養子であることもありでその家訓を忠実に守られたのでした。

 

江戸城の会津藩上屋敷は和田蔵門にありそこは幕府の軍事拠点であり重い役目を担っていたわけで人を育てる教育と武芸には大変励まざるを得なかったわけです。

 

幕末に海防警備、京都守護を任されたのは会津がそのために存在していたといっても良いためでした。

 

この正之公のサクセスストーリーは子供の時何かの本で読んで知っていた。

 

筆者は小学校時に玉川上水のことを知ってその仕事に尊敬の念を持っていましたがその指示をしたのが保科正之公でした。

 

猪苗代の土津神社。

保科正之公のお墓とその神社。

 

鳥居家家臣(左京衆)

山形城

 

永13年(1636年) 保科正之公会津藩主となる 家筋は源氏の流れ 会津若松の「若」と松の「木」をもらったような話もある。

老女になった(昇進)関係があるように思える。召抱えの時は「森」だったようです・・・。

独礼の武士とは殿様に個人で謁見できる身分。

 会津藩には同姓の家が数件あった模様。捕虜になった名簿には朱雀寄合隊で同姓の名が載っているがどのようなつながりか不明。

ちなみに旧蘆名家家臣や他の地域にも同姓の家があるようだが今の所つながりの関係はない模様。

 

 

その昔、先祖はカッパを助けたことがあるそうな。生まれた頃の妹にその言い伝えの印が出たと聞いている。

 

栄寿院 付き 老女

お殿様より名前をいただく

 

会津日新館

家臣の子供が通った学校。天文台、水連用のプール、日本初の給食もあった。

佐久間象山、吉田松蔭なども見学にきた。子供達は什というグループを作り、年上年下の上下関係をしっかり学んだ。

 

米代四ノ丁

近所は同クラスの藩士の屋敷、お城に近いので守りの役目もあったかも。戸籍や諸氏系譜から同クラス、山形時代からのゆかりの藩士の家とつながり(結局のところ、家中親戚だらけ)があったようだ。

 山本八重さんはやっぱりあの地獄の戦争を生き抜いた人だからそれは当然怖かったでしょうね。曾祖母も武家の女性なので大変厳しい人だったそうですし。八重さんや中野竹子さんだけでなく会津の女性はみんな男と同じように戦ったのですね。女性たちの戦争体験談が残されていますがあまりに凄惨すぎて信じられないほどなのです。

 

 

 

御供番

寛保元年12月 (1741年)

米代四ノ丁

御供番とは名の如くお殿様の護衛役、武芸達者の武士の集団。

 

会津藩には諸氏系譜(上級藩士の名簿)、家世実紀(会津藩の藩政記録)などの資料がありそこにかなりの記載があった。戸籍も明治20年当時のものがありう、福島県立博物館にも旧会津藩士関係の貴重な資料があり伝承との整合などかなりの情報が得られた。

逆に明治年間の記録が未発見状態。伝承の

裏付けができない状態。太平洋戦争等により資料が失われていることも原因です。

 

 

金戒光明寺

金戒光明寺は知恩院と同じ城郭建築になっておりもしもの時に御所を守る目的で幕府が整備していて1000人分の宿坊もあった。

 

容保公 京都守護職に任ぜられる

文久2年12月 長坂平太夫組にて 入京

 

容保公は働き(いわゆる8月18日の政変)により孝明帝に大変信頼され書状と和歌をいただいた。それは将軍でももらったことがない貴重なものであり、紛れまなく朝廷の家臣でありました。もしその存在が知れていれば会津戦争も起こらなかったかも知れない。書状と和歌の存在が世の中に知れたのは容保公がなくなって時間が経ち明治の終わり、いや、今でも知られていないかも知れない。恭順の意を示して謹慎していたにもかかわらず会津藩は濡れ衣の罪を着せられ嬲り殺しのようなひどい仕打ちは受けなかったはず。略奪、陵辱なと城下は地獄のようだったそうです。戦争で亡くなった藩士の遺体を罪人同様にお墓に埋めることを許可せず、次の年の春まで野ざらしにさせた・・・なぜ武士道のカケラもない、そんなひどい戦になってしまったのか?・・・。未だに会津と長州が仲直りできないのはそのためでもあるのです。

 

金戒光明寺 三門

禁門(蛤御門)の変

京都御所の蛤御門。禁門の変禁門の変の激戦地。ここも無数の弾痕がある。

 

元治元年6月 池田屋騒動

    7月 蛤御門の戦い

新撰組と共に九条河原に布陣。 

 

 

 

山崎 天王山宝積寺

古くは壬申の乱、秀吉の山崎の合戦、禁門の変、戊辰戦争と4回の頂上決戦の舞台の天王山。

70年万博の時に祖母の伝手で宿として泊まったことがある。今思うと不思議な縁なのですが・・・。

 

 

戊辰役

飯盛山より駅方面

 

慶応4年1月〜明治2年5月戦争終結

玄武隊甲士 朱雀隊

「なよ竹の碑」自刃した約250人の女性たちの名簿の中に曽祖父の伯母の名が載る。

城下は火の海になった。女性は足手まといにならぬよう自害するもの、城に入ったもの、郊外に隠れたものがあった。

 

 

父はその厳しい曾祖母から「お前は白虎隊の子孫なんだから」と言われていたそうですが調べると白虎隊士ではなかったけれど玄武隊、朱雀隊の隊士が身内なのですから

有名な「白虎隊」だったと話したのでしょう。

 会津藩は慶応年間に旧制度から近代兵制に変換。50代以上を玄武隊、その下が青龍隊、若者精鋭を朱雀隊、少年を白虎隊白虎隊とした。人数が足りないので若年若年白虎隊もあったらしい。その他、農民、町人の隊もあった。

 

会津藩は降伏しなければきっと全ての藩士は死ねまで戦ったでしょう。他の幕府側の藩が裏切ったようにしていたら1000年続いた武士という存在はなかったとなってしまうし・・・。あの江戸城の周りにいた旗本なんかはどうして他のでしょう?。

 

 戦いに負けた会津藩士達は故郷も何もかも失い捕虜になった後、青森の僻地に斗南藩を与えられ移住することになった。それは冤罪と言える濡れ衣を被せた流罪となるものでした。

 

 

大豆田村 (現在の芦ノ牧温泉駅近く)

に寄留

 

明治3年秋 新潟港 より 船で

斗南へ

 

斗南、五戸へ

田名部 斗南ヶ丘 跡地

 

明治3年秋 新潟港発

斗南は23万石が3万石に(実際は7000ほどしかなかった)減らされ貧困になるのは目に見えていた。

さすがの新政府も濡れ衣をかぶせ故郷を追われたインテリ乞食達を不憫に思ったか一隻の蒸気船をチャーターして何度か旧藩士を青森まで運んだ。

新潟発の船に当家の他に2家の名、明治5年の旧藩士名に別家らしき名があるがこれもどのようなつながりかは不明。

 

五戸藤島村 家督相続

多分仕事も住む所も着るものも無く食べる物も取れない、会津よりも寒い土地で乞食同然の極貧を強いられる。武芸はすごくてもその手でクワを持ち慣れない農作業を強いられた。

先祖の伝承では「食べるものがなくて虫も食べた」なんていうことを聞いています。

 

安藤家、藤田五郎、時尾なども近所にいたようだ。

 

旧会津藩士たちは学業か軍関係、警察関係に就くものが多かった。

 

 

会津へ

明治4年廃藩置県

これにより斗南藩は消滅、旧藩士は新天地の領地もなくなった。新しい時代になり青森に残る者、北海道に渡る者、東京に出る者、懐かしい会津に戻る者とバラバラになった。

 

 

明治5年壬申戸籍編纂

小松村 に寄留 行人町 へ

只見線にて車窓から

鶴ヶ城 廊下橋

信夫山 森合狐塚

 

浄光寺

昭和8年6月

浄光寺は高遠、山形を経て会津へ。会津ではお静さま関係もあり由緒あるお寺。維新後は荒廃したらしい。

 

 

室蘭

昭和7年 母恋

日本製鋼所室蘭は海軍御用達で戦艦の大砲を作っていたりした。祖父は経理で非常に有能だったそうです。スーパーマンのようなエピソードがたくさん残ってます。

父もなんでも上手な大変感の良い人でした。優秀な会津藩士の血を受け継いでいるわけですが、自分にはそのような才能は微塵もありませんが・・・。

 

沙流郡日高町富川

 

余市 

旧会津藩士が建てた開村記念碑

余市(小沢)にも親戚があったようだ。

 

荻窪

 昭和16年 岩内郡小沢村に籍移動

小沢村村長が身内にいた関係らしい。

 

 戦争では焼けなかったそうだが家を空けておいたら荒らされてしまったので北海道に移ったらしい。

 

会津図書館で資料があるかと見てみると先祖らしき資料がありました。家にはもう家系図などもないし(昔、父が見たらしい)断片的な伝承があるだけなのでそれらの確証を調べたくなり調べ出しました。

まず父の戸籍謄本を杉並区で取り寄せました。それから岩内町から戸籍と取り寄せ会津若松に籍があろことがわかり恐る恐るドキドキで取り寄せました。どんなものが書いてあるかわからないし、見ない方が良いものが出てきては嫌と思ってましたが戸籍を見たらなんとその資料が一致してきました。壬申戸籍なるものにはもう少し細かい部分が書いてありそうですが法律の問題もあり自分の生きてる間には見れそうもありません。でもそのわかった事柄から会津図書館、国会図書館、都立中央図書館、青森県立図書館、北海道立図書館、福島歴史博物館、東大資料編纂所でかなりの資料が見つかりました。先祖の足取りが500年前分わかってきました。歴史の教科書に載っている事柄に遭遇しているのがそれはびっくりしてしまいます。今自分が探してまとめておかないと破棄されてしまうものもあるかもしれませんし・・・。

 

2017年に会津図書館にて諸氏系譜の原本を調べて、かなり詳しいことがわかりました。今現在解読中ですが・・・。

 

--番外編--

故谷啓氏との繋がり

祖父と故谷啓の父は日本製鋼所で同じ経理で同僚だったそうだ。父は結婚の挨拶で行って谷啓と食事したそうだ。

その後谷啓の家も会津藩士だったことを知りました。単なる偶然らしいけど、お墓も同じらしい。

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参考文書

野口信一著 シリーズ藩物語 「会津藩」

 平石弁蔵著 「会津戊辰戦争」

山川健次郎監修 「会津戊辰戦争」

北原雅長著 「七年史」

山川浩 著        「京都守護職始末」

葛西富夫著 「斗南藩史」

芳賀幸雄著 「要略会津藩藩士系譜」上下

 

その他 多数

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薩摩藩とは

関ヶ原以降、250年もの間、鹿児島に閉じ込められていたとも言えるかも。

武士としての精神は会津に通じるものがある気がします。

霧島神宮

 

薩摩の武士も元は源氏の鎌倉武士の子孫なので徳川より島津の方が源氏の本流に近いとかそれなりにプライドがあったのかもしれない。

知覧 武家屋敷跡

 

城山 西郷隆盛像

やっぱりこちらの西郷像は勇ましい。

 

母方の薩摩の古い資料は会津ほどは無く捜しようがありません。ただ鹿児島城下の武士の住まいを調べた本がありそこには伝承と同じ地名の記載がありました。あと分限帳の名前との一致まではできていません。

 

祖父はいわゆる「明治の薩摩の男」で大変な無口だったので何も残していないのでした。

会津の方も結局同じように「明治の会津人」らしく無口だったようですが・・・。

 

 

集成館

斉彬公は西洋の文明を取り入れ、少しでも

後の世のためにと試行錯誤して様々な技術を習得、発展させようとしていた。

桶の口(てのくち、たいのくち)

鹿児島城下桶ノ口 

偶然なぜか地形が米代と似ている。

 

先祖には絵描きの人がいたらしい。左利きも遺伝かな。

西南の役

明治10年

親戚に西軍として戦争に行った人がいたらしい。

激戦の地 熊本城

 

会津藩士も敵討ちとばかりに政府軍に加わり戦場に行った。

 

そして武士という千年続いた存在も西郷隆盛と共に消滅した。

 

鹿児島県立中等造士館

明治20年4月 入学

 

明治二十年造士館騒動

多分騒動により上京することに。

ちなみに戸籍によると曽祖父の父親が府籍というもの担っていてかなりの極貧乏であったことが伺える。

吉井幸蔵伯爵 巴里1890年

 

幸蔵の父は友実(ともざね)、薩摩の

西郷、大久保に続くNo,3です。息子は勇、(詩人、ゴンドラの唄を書いた)です。

幸蔵は少年時代に坂本龍馬を霧島登山を案内した人でもあります。父である吉井友実は坂本龍馬の薩摩で一番の友人であったらしい。この写真は祖父の遺品(空襲から持ち出して残った)から見つかれました。

渡米

明治24年6月〜

本田庸一氏の推薦によりアメリカへ

 

吉井幸蔵宛て渡航前のお礼の手紙があったのだが、

叔父の「吉井さんは親戚」との言葉で話が繋がった。あと川村景明元帥の写真も曽祖父の遺品から発見。薩摩人だし何かつながりがあった模様。

 

 当時は渡航にはかなりの金額がかかり何かしらの援助がないときびしかったはずで、特に曽祖父は極貧乏だったようなので多分親戚が政府要人関係だからそれが可能になったと推測する。廃藩置県煮より薩摩藩はなくなり武士は士族となったが禄はなくなり途端に貧困状態に。

 

国会図書館で当時の外国渡航者を調べると

何万者人々が渡っている。中には著名人もあり(西郷隆盛の子息の名もある)、なのだが曽祖父の名はなかった。別ルートか変名を使ったのかもしれない。

 

推薦を受けたくらいなので渡米前に英語はかなりできたのでしょう。帰国後は当然語学力より引く手あまた状態だったよう。地方のいくつもの学校の英語教師、通訳として活躍したようです。

アメリカから(アイスクリームのような)何かお菓子のレシピを持ち帰り、それは誰かに譲り、その人は大成功したらしい。

 

あとピストルもあったそうですが太平洋戦争前後にお金を作るために売ってしまったらしい。

 

 

家の庭に色々埋めて隠して疎開したそうだが帰ってきたら掘り起こされて無くなっていたそうだ。

ちょっと難しそうな人が曽祖父。薩摩人だし洋行帰りだしなあ。

 

新聞記者

日本石油

ジョージ・A・フラー社など

帝都復興院

大正12年9月 関東大震災

有楽館建設中 被災 そのまま帝都復興院に

 

当時、曽祖父の書いた業界雑誌記事が国会図書館に保管、存在した。

 

残る履歴書んいよると通訳でなく学校関係に進みたかったようです。

 

 

--番外編--

柏木流

昭和初期、中列左2人目志農婦(琴蔵)

 

祖母は本当に踊りが好きで好きでたまらないような人だったそうです。その頃でも習い事をできるのは大変な贅沢だったようですが修練して極めてしまったわけですからすごいことです。

 

日暮里から飛鳥山までの徒歩花見行列

70年万博

 

 

 

 

銀座生まれ

両替商から

20歳で小学校卒業

勘当 植木屋さん

 

最近戸籍を調べたら、銀座3丁目に家があったみたい。今の松屋のあたりでした。もう面白くて笑ってしまいました。

 

泰明小学校らしいので調べてみようかな。

漱石の「坊ちゃん」

漱石の「坊ちゃん」を改めて読むと

主人公は幕臣の出、山嵐は会津者という設定だ。これは歴史を知ったらわかることで漱石自身も幕臣の出であるから何かを話に含ませていると考えます。

 

 

 

雑事

義理の祖父は昔、松竹にいて雑誌の編集長、SKDを率いて海外慰問(ターキーがいた時代)、浅草常盤座の支配人などをしていたらしい。常盤座が無くなる前に偶然に出演できることになり個人的に非常に感激した思い出がある。

新選組とは

京都守護職、会津藩の下で治安維持のために江戸から来た浪士からなる

京都における警察官のようなものであった。

大国魂神社

高幡不動の土方歳三像

市ヶ谷 試衛館跡付近

小石川 伝通院 江戸出立の場所

三条小橋、池田屋跡

新組が歴史の表舞台に出た場所。

長州藩士を中心といた過激派が京都守護職を殺害し天皇を奪いさる恐ろしい計画を実行させる直前、察知した新撰組がそれを阻止した。明治維新が数年遅れたと言われる。

 

そのことにより幕府から褒美を頂く。しかしこの事件がきっかけで「8/18の政変」により京を追われていた長州の恨みが蓄積、「禁門の変」が勃発、しかし会津、薩摩の連合により長州軍を撃退。その頃自国は外国船に砲撃したことで4カ国連合艦隊により攻撃され敗北。高杉晋作を中心とした新興勢力が長州を復活させてゆく。

亀山 本徳寺 伝西本願寺集会所跡

西本願寺の屯所説、不動堂村の屯所説があるが?

鳥羽伏見の戦い 千両松古戦場跡

母成峠古戦場跡

神指城跡の如來堂

会津での新撰組崩壊の場所。

函館 一本木関門跡

碧血碑

 

新撰組は京都で会津藩お抱えになり、会津とは所縁がある。

会津東山天寧寺は近藤勇の墓があり土方歳三が率いた新撰組の屯所でもある。郊外神指の如来堂は新撰組の戦場として有名な場所だ。

 

特に斎藤一は斗南五戸でも近所だったようなので顔見知りであったように思える。会津で土方達と別れ戦い、斗南にも行き、会津にお墓があるくらいだから会津藩士となったと言っても良いでしょう。

 

 

幕末とは

アメリカのペリーが開国を迫って日本に来た時から幕府崩壊、明治新政府が出来上がる激動の時代。

幕末志士の4つの方向

大きく分けるとこの4つの方向に考える人々に分けられる。全てに皆命をかけているから大変なのだ。なぜこのようになっていったかは幕末史を考える時避けて通れない問題なのだ。

 

尊皇とは

天皇を尊び中心に考える思想。

攘夷とは

外国人(特に西洋人)を排除する思想。

勤皇とは

尊皇をより強力に日本の国は幕府を倒し天皇が治める国にする、という思想。

佐幕とは

幕府があくまで政治の中心である、という思想。

その他 雑事

斎藤一は明治時代に警視庁退職後高等師範学校に勤務していてそこには漱石も教師として勤務していたらしい。当然二人は顔見知りだったのいでしょう。

漱石が住んだ早稲田近くの夏目坂近辺には永倉新八が住んでいて父親とよく話をしに来ていたらしい。

 

 

雜事 その2

ひょんなことから祖先を調べてその幕末を中心とした歴史を勉強できた。とにかく雑学ですが何かしら見ても関連して理解できるようになった。

例えば靖国神社という存在を考えるきっかけにもなったり、日露戦争、太平洋戦争の事なども。

故郷も自分には無いように思っていたが、北海道はじめ、会津、鹿児島、はたまた京都、青森まで懐かしい関連地になってしまった。

 

 

 

官位とは

天皇や位の高い人に会うためにはそれなりの位がないと会うことができない。

太平洋戦争が終わるまでは日本も階級制度がはっきりしていた。ある程度の税金を納めないと参政権もなかった。当然女性にはそんなものはない。

 

戯論

 

勝海舟は江戸城無血開城なんかで有名ですが実は身分はかなり低くて実際の開城の実務は幕府上層部が行なったらしい。やっぱり実力と頭脳のキレが半端ない人は歴史上に出てくるようですね。坂本龍馬も身分はかなりの下級武士なんだけど。

 

 

 

 

 

 

 

名前のこと

昔の武士の名前は今みんなが使っている名前が多いですね。通称は「官兵衛」とか「文左衛門」でも本名は「みちつな」とか『たかのり」とか。現在の当たり前の名前は当時は武士じゃないとつけられないものだったわけね。例えば介とか輔とかは官位に由来する高貴な名前だったり。兵衛なんかもそうでした。

女性だと「みよ」とか「いね」とかで高貴な人は「久子」とか「啓子」だとか。子ってつけられるのは高貴な人に限られたわけですね。当時の人が今のキラキラネーム見たらどう思うのだろうか?。